転職・起業事例10/第二の天職、福祉の仕事へ

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鎌田敦は、大学の法学部を卒業して大手メーカーに就職。総務畑、企画畑、営業畑を歩き、部長を務めた後、五五歳で関係会社の役員として出向した。

ここまでは、比較的恵まれた同年輩の歩むコースと何ら変わらない。

鎌田白身、六五歳くらいまでは出向先の会社に勤務できるものと思っていた。が、五九歳のとき、関係会社の役員改選時に再任されないことを告げられた。

本体である親会社のスリム化のため、親会社から後任が送り込まれることになったためだ。

親会社の人事部から、新しい出向先を捜しますからと言われ、複雑な気持ちになったことを今も時折、思い出す。

その後、いくつか出向の話がきた。その中に、ある福祉関係の団体の事務長職があった。病気で身体の一部の機能を失った方の機能回復訓練を行う団体である。

事務長といっても事務員は二人だけで、機能回復訓練の会場設営、運営の世話から、会員登録事務、会費の管理、役所への報告事務など雑用も含めすべてやらなければならない。

また機能回復訓練は毎週土曜日にも行われ、休日も、これまでよりかなり少なくなる。福祉関係のボランティア的な団体であることから、給与も低く、厚生年金と企業年金を併用してなんとかやっていける程度のものであった。

しかし、今までのしがらみがない点、かえって割り切れるのではないかという考えと、福祉関係で人の役に立てるところに魅力を感じ、鎌田は出向を決心した。

人事部の出向業務担当の赤坂武生に案内されて面接に行き、機能回復訓練の現場も見学した。病気を克服し、失った機能を回復させたいと願う人々の懸命な姿に圧倒された鎌田は、これはいい加減な気持ちでは勤まらないと思った。

ここまで踏み出した以上やるしかない、と決意を圃めた。

事務長の仕事は実務も多く、肉体的にもきついものだった。それまでさわったこともなかったパソコンも打たなければならないし、経理の帳簿つけも自分でやらなければならない。

そんな彼を、夫人は陰になり日向になり励まし、協力してくれた。

機能回復訓練に来る人も、サラリーマン、医師、弁護士、自営業者などさまざまで、それまでの会社勤めでは接する機会のなかった人たちとの付き合いも楽しく感じられるようになった。

また、彼らの真摯な姿にも励まされた。

彼は今、かつての会社での競争的で追い立てられるような日々を離れ、妻と2人の心穏やかな生活をしみじみと味わっている。

今は、現在のこの仕事を第2の転職として日々忙しく動きまわっている。

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転職・起業事例9/出向を機にコンサルタントに転身

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組織の上級者に必要な資質とは、専門知識、気力、体力そして判断力、加えて決断力といわれている。

リバティ化学株式会社に勤務する高村昇には、南泰造という畏敬に値する先輩がいる。

南の言動は覇気に満ち、接する人たちは彼にパワーをもらい、勇気づけられる。とはいっても、元気のみが上滑りしているお調子者ではない。

高村には、仕事を進めるにあたって、「物事をキーワード、相互関連、体系、数値、さらに本質で捉えよう」という基本姿勢がある。この仕事の進め方が、南と意気投合するところ大である。

南のキャリアパスも多彩にして豊富、工場での研究開発、エンジニアリング、生産技術、製造、品質保証、そして、本社での企画開発、技術サービスを体験している。

現在、彼は、外資系コンサルティング会社へ出向している。このマイテル・マネジメントサービス株式会社(以下、MMS社)は、リバティ化学との間に資本関係はない。したがって、南は、その専門知識、意欲と人柄を評価され、MMS杜が日本で新規事業を拡大するため、請われての単身出向となった。

出向後も、新たな職能を開発し、いくつかの国際資格を追加取得した。その語学力とあいまって、今や彼は、世界に通用する品質監査や環境監査のプロフェッショナルといえるだろう。

南が関与する認証ビジネスは、事業構築、営業開拓、教育研修、認証監査、定期監査の流れに乗って展開される。したがって、顧客に信頼を提供し、この流れに乗ってもらうため、認証審査資格者は日常の営業活動も欠かせない。

つまり、認証審杏の技術レベルを高める研鑽もさることながら、顧客を開拓していくための人脈づくり、それを可能にする折衝力と、意欲や人望も重要な資格要件といえる。多面的に考察し、あるべき姿を力強く語り、目標へのアプローチにも多くの選択肢を例示できる南には、宣教師とか導師のような風格をさえ感じることがあり、この仕事にはまさにうってつけだ。

高村が所属するリバティ化学も、CI活動以来、3つの理念を掲げ、社会の調和と発展に貢献する事業を展開している。

物を創る、物を作る、物を売るといった行為はすべて人が基本である。高村は、〈意欲に満ちて自立した人材〉〈あたたかく感性豊かな人材〉〈仕事を通じて考え、学び、自己実現していく人材〉を目指すための「人材育成理念」に強い共感を覚える。

したがって、職域で担当業務に精通したエキスパートとなり、さらに、そのスキルが社外でも通用するプロフェッショナルヘと飛躍させた南に、高村は畏敬の念さえ抱くわけだ。

企業が生き残るために講じてきた多種多様なリストラ策、あるいは企業そのものの消滅により、会社人間ゆえの試練や突然の失職で、戸惑いや疑心暗鬼の混乱状態に陥る。脆くも崩れた「自分一人の力で何でもできた」という信じ込みと、「自分1人の力では何もできない」という意気消沈のはざまで、「自分一人の力でも何かできる」と信じることの大切さを勉強することになる。

最近の新聞記事やテレビ番組でも「自分一人の力でできるこ」とを説く啓蒙例が目立つ。

仕事に追われる多忙な日々の中から、自己啓発の勉強、あるいは地域のボランティア活動のための時間を捻出し、成功させている人たちの生き方が共感を呼んでいる。

しかし、大変な努力の末、世の中で言われる一流の法定資格を取得しても、会社を辞めて自分一人の力で同額の年俸を稼ぎ出すことは至難の技だ。

高村の会社でも一念発起して、弁理士、公認会計士、技術士や中小企業診断上といった一流資格を取得した人がこれまでに数十人いる。退職してさらなる苦労の末、やっとの思いで自らの公認会計士事務所を開設した人もいるが、総じて、独立はむずかしいというのが現実だ。

景気低迷や業域無き大競争の中で、ひとつの資格で完結し、顧客に満足を提供できる仕事は、減少しているようだ。

つまり、公認会計士、中小企業診断上、社会保険労務士、税理士、司法書士、不動産鑑定士、土地家屋調査士等、七人の侍がネットワーキングしてはじめて、仕事を確保できる時代のようだ。

こうした厳しい現実をよく知る会社人間は、ますます組織にしがみつく傾向にある。これも事実だ。

社外でも通用する特色ある能力を発揮できない人たちは、組織の中で協力し、ときにはもたれ合うことも善しとしよう。

高村は、プロフェッショナルとして生きることを決断した南を尊敬する一方で、最近、「自分は大いなる会社人間でもよい」と達観しはじめている。

いくつかの職域でエキスパートとなり、直近の仕事を確実にこなしていく「誠実さ」と、夢やあるべき姿を語り実行していく「挑戦」の積み重ねが、会社の発展にも個人の生きがいにも大切だと感じるからだ。

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転職・起業事例8/資格を取得し自力で定年後の職場を開拓

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安部恒久は60歳と六ヵ月。出向元の60歳定年後も、現役で頑張っている。

安部は県内の工業高校を卒業してすぐに束北地区にある石油化学メーカーに入社した。

ちょうどその頃は日本における石油化学工業の勃興期であり、目本全国至る所で海岸を埋め立てて工業地帯にし、製造プラントの建設の槌音も高らかな時代だった。

安部は入社後すぐに製造プラントの運転業務に携わった。海外からの輸入技術での運転のため、まだ運転技術の確立にはほど遠く、毎日が試行錯誤の連続だった。

それでも彼が入社した年には、日本ではじめての石油化学製品が生産され、石油化学時代の到来を象徴していた。

こうして石油化学工場の製造員としてスタートした安部は、その後、製造プラントの運転はもちろん、製品の品質管理や出荷などの業務のほか、製造プラントの補修工事計画、プラント建設のプロセスエンジニアリング、さらに石油化学工業に対する安全、環境対策の重要性が叫ばれてからは、工場における安全および環境業務など、石油化学工場における業務はすべて経験し、課長職にも就いた。

その間、必要な資格である危険物(甲種)、高圧ガス(甲種化学)をはじめ各種作業主任者の免許も多数取得してきた。

定年は六十歳であったが、管理職は後進に道を譲るために五十歳でラインを退き、昨今では、資本も取引きも全くない一般会社へ転出するケースが多くなっていた。

彼も、化学品製造系の業務に進みたいと思っていたが、そのような業務がないときには、自分の能力を生かせるのであればどんな所でも出向・再就職をする覚悟でいた。

ラインを離れたあと、転出先がないために、それまでの部下の下で一担当者として業務を遂行するより、一日も早く社外に出たいという強い希望を持っていた。

管理職定年を迎えた二ヵ月後、安部に、自社の製造委託先の合成樹脂加工メーカーが管理職を求めているという話が持ちかけられた。

業務内容は当初は営業活動を主体にして、その後は工場長として生産、出荷、労務管理などを中心に工場運営を行い、将来的には経営そのものを見る、というものだ。

安部は今まで化学品を扱ったことはあるが、合成樹脂そのものも、その加工についても全く扱った経験がなく、そこに一抹の不安を感じた。さらに土曜日が出勤のほか、勤務地が自宅から片道一時間~と、今までより通勤に時間がかかる点も心配だった。

しかし最終的には、「頑張ればなんとかなる」という強い信念で、この紹介を受けることに決めた。

出向後の安部は、肩書きこそ専務取締役だったが、実際には営業から製造、出荷、管理業務まで、全てにわたって実務をこなさなければならなかった。

というのも創業3代目の現社長は、技術は一流だが、心臓病、糖尿病、高血圧という持病を併せ待ち、健康面に不安を抱えた無理のきかない身体だったからだ。

そのため出社しない目も多く、全ては安部の切り盛りにかかっていたのである。

バブル崩壊後の不景気に加えて社長の健康不安という状況は、自然に取引先にも知れ渡り、受注、販売面でだんだんと先細りになってきた。

さらに出向元からの受託製造量も減少の一途をたどり、彼自身はまだ頑張れると思っていたが、とうとう出向元の判断で復職することになった。

年齢は五六歳六ヵ月だった。復職した安部は人事部所属となり、自分の再出向先の開拓を業務とする毎日がはじまった。

人事部からの紹介案件もあるが、会社からは自分で人材斡旋機関に登録するほか、新聞雑誌の求人広告などで自力開拓をするよう要請された。

安部は一回目の出向と同じように現場の製造関係業務を希望したが、もしなければ何でもよいと覚悟したほか、できるだけ早く出向したい、ただし通勤はできるだけ自宅から近い所がいい、という目標を持って求職活動を行った。

公的、民間の人材斡旋機関に足繁く通いいろいろな情報をもとに設備管理会社、機械メーカー、化学品メーカーなどを受験。しかし参入の能力・やる気とは関係なしに「専門がぴったりしていないため即戦力に々らない」「年齢が高い」、などの理由からいずれも不合格となった。

そこで出向・再就職に有利で、自分にも取得できる資格はないものかと考えた。

そしてボイラー技師の資格に的を絞り、会社の承認を得てその取得のための受験講習会に通うことにした。

溝習会が終わり、今月は資格試験を受験するという月のある日曜目、最近の日課になっている求人広告に日を通すと、市内の総合ビル管理会社E社がビルの設備管理技術者を募集している記事が目に留まった。求人年齢五七歳まで、勤務は日勤、定年は六十歳だが、健康が続けば六七歳くらいまで勤務可能、自宅から通勤約一時間、と願ってもない好条件だった。

年収は出向のため、出向元から満額支給されるが、広告によれば安部の現在の年収の約半分で、会社に負担をかけるのは半分までで済むというところも魅力的だった。

安部は、さっそく、翌日会社に出勤する途中でE社に立ち寄り、ボイラー技師を受験するつもりであることを告げて採用試験の受験申し込みをした。

E社では安部の取得している資格とチャレンジする積極性を評価してくれて、安部は幸いにも、多数の応募者の中から選ばれ採用が決まった。

こうして彼は、自分から積極的に管理職定年を受け止め、自らの進路を切り拓いた。管理職定年で会社から紹介された職場で充実感を見出せないまま過ごすのも、安部のように、第二の人生を過ごすための職場を求めて積極的に行動するのも、本人次第だ。

彼はその後六十歳で出向元を定年退職したが、先方から今までの積極性や人間性を見込まれ、その会社にプロパー社員として採用された。

今後さらに、ボイラー技師の上級資格、ビル管理、電気主任技術者など、ビルの設備管理者として必要な資格に挑戦して取得し、その後は本社においてビル管理業の経営に直接タッチしてみたいという希望を持っている。

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