転職・起業事例15/糖尿病対策から趣味になったウォーキング(2)

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鈴木がウォーキングをはじめたのは10年前。それまでの暴飲暴食がたたり、糖尿病を患ってからのことだ。

体重は肥満度30%を優に越えていた。“休肝日”が週に一日もなしという生活では仕方がない。

彼は会社の健康診断の際、夫人を伴って病院に行くように言われた。そこで主治医から投薬、ダイエット療法および運動療法を言い渡された。

食事は一日1,800Kcal以内、運動は一日一万歩以上の歩行を実践するようにとの指導を受けた。

彼は30歳のとき、大病を患って九死に一生を得た経験がある。ゆえに医師の言うことには従順で、真面目に治療に専念した。その結果20キロの減量に成功し、10年たった今では標準体重にまで下がっている。

鈴木は目標を倍にして、一日二万歩計画を立てた。そうすれば、少なくとも「一万歩/日」は楽に達成できると考えたのだ。

まず朝食前に一時間のウォーキングを日課とした。一時間歩けば7,000歩以上になる。それから通勤に片道5,000歩のコースを設定した。

私鉄を一駅および地下鉄を二駅歩くことで5,000歩稼ぐことができる。

その頃、彼は営業で外回りをしていたので、タクシーはできるだけ使わず、もっぱら歩くことに専念した。こうすることで、目標の「二万歩/日」は着実に実行することができた。

ちょうどその頃、勤務先の人事部と労働組合が共催で「歩こうキャンペーン」が開催され、歩くことに自信がついた鈴木も、これに参加した。

一日の歩数を毎日カードに記入し、六ヵ月の合計歩数を競うものだ。

負けず嫌いの彼は、さらに一層ウォーキングに熱中した。朝食前のウォーキングも、夜が明けたらスタートし、夏場などは二時間以上も歩いた。大会前最後の一ヵ月の追い込みには、8キロ以上ある会社まで毎日徒歩で出社し、同僚たちを驚かせた。

その結果、六ヵ月間の合計は430万歩にも上り、距離にして3,000キロに達した。

成績は、参加者400人中二位だった。上には上がいるものである。

糖尿病の運動治療のためにはじめたウォーキングも、こうなれば趣味のようなもので、彼の生活の中では欠かせないものとなった。

鈴木には夢がある。それは定年後、琵琶湖一周を踏破することだ。

距離にして200キロ、踏破には一週間くらいかかるだろう。それから四国八十八ヵ所めぐり。これは1,400キロ以上あるので、何日かかるものやら。

そして東海道五十三次もと、彼のウォーキングの夢は広がる一方だ。

(続く)

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転職・起業事例15/糖尿病対策から趣味になったウォーキング(1)

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季節はずれの熱帯低気圧が接近し、天気は荒れ模様。夜半から大粒の雨が降り出し、風も相当強くなったようだ。

霞ヶ浦の東町の旅館で、鈴木誠は、そんな天気を恨めしく思い、今回の徒歩による霞ヶ浦一周踏破計画を中断すべきかどうか思い悩みながら布団をかぶって寝ていた。

隣には勤務先CIケミカル株式会社で同僚の中田和男が寝息をたてている。

ときどき中田の寝言が聞こえる。昨日歩いた土浦から東町までの35キロがよほどきつかったのだろう。

この計画を立てたのは一年前。昨年のゴールデンウィークに九十九里浜の60キロを二日で踏破したときに、歩き慣れない中田がなかなか鈴木についていけず、一年後の再挑戦と相成った。

そこで今回の霞ヶ浦一周90キロの三日間での踏破を計画したのだ。

翌朝、風は依然強いものの雨は小降りになり、かろうじて合羽さえ着ればなんとか歩ける状態になった。さあ出発だ。

二日目の行程は東町から牛堀町を経て、玉造町までの25キロである。風は暴風に近く、横風を受けると真っ直ぐ歩けないほどだ。

向かい風のときは前傾姿勢でようやく歩を継いだ。二目目の25キロは初日の35キロよりハードに感じた。

最終日は快晴で風もなく、玉造町から霞ヶ浦大橋を渡って土浦までの25キロだ。二日目と同じ距離にもかかわらず、昼過ぎには土浦に到着し、昼食と一緒に乾杯を上げることができた。

中田も一年間の精進の成果が現れたようで、前年に比べると格段の進歩がみられた。

(続く)

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転職・起業事例14/得意な英語で充実したセカンドライフ

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五月の連休明け、人材センターの菊池仲郎に国際電話が入った。シンガポールに単身で駐在している庄司直人からだ。

聞けば、七月に一時帰国するので、ちょっと会えないかとのこと。

庄司は、昭和四三年に大学卒業後、大手化学メーカーヘ入社。ちょうど石油化学産業が大きく成長しはじめた頃で、第一線の営業マンとして、東奔西走の毎日だった。

その後、物流業務、支店の総務の仕事に従事し、50歳の秋、工場への転勤が決まった。

今まで、単身赴任だったが、今度は家族の元から通勤できる勤務地であり、本人も喜んで勤務した。

しばらくすると、英語の得意な庄司に、外資系会社への出向の話が持ち上がった。副社長までの面接はクリアしたのだが、結局、不採用となった。

前職にはすでに後任者が着任しているため、不安定なポジションとなり、当面新しい関連会社の設立にかかわる業務に従事することになった。

菊池は、三年間、庄司と同じ支店で仕事をし、遊んだ仲間でもあり、ときどき庄可と連絡を取り合っていた。

「庄司さん、調子はどうですか」

「いや、新会社設立準備で忙しくやっています。パソコンもずいぶんうまくなりましたよ」

と明るい声が返ってきた。

関連会社発足後は総務部長として、関係官庁との折衝、社内労務、資金繰りなど会社の要として獅子奮迅の活躍だった。

再び外資系会社との合弁会社への出向の話があり、決裁が下りていたが、受入先の都合で出向の話が中止となった。すでに後任も着任していたため、再び浮いてしまい、特命事項をこなしながら新しい出向先を探すことになった。

庄司は、支店勤務時代の同僚で、出向関係の仕事をしている菊池を訪ねた。

「菊池さん、今は特命事項担当ですが、近々これも完了します。どこか自分の知識・能力を活かせるところはないでしょうか」

菊池は、いくつかの候補会社の中で、海外への業務拡大を進めている現在の株式会社を紹介し、同社への出向が決定した。

出向後、一年間は国内営業を担当していたが、海外の取引先の社長が来社した際、庄司が同席して通訳をつとめ、社長、常務から英語力を大いに評価された。

これがきっかけとなり、同社香港事務所での販売拡大と若手営業マンの教育・育成を任されることとなった。

その後、シンガポールに事務所を開設することになり、同社常務、若手社員および英語力を買われた庄司の三人が、シンガポール駐在となった。

シンガポール事務所では社長の息子である常務との意見の衝突もあり、庄司も今度は、会社を辞めようと思ったこともあったという。

が、什事の進め方・従業員の教育についてじっくり話し合い、「雨降って、地固まる」の例えのように、その後は常務、社員、現地採用の社員と一丸となって、営業活動に従事した。

庄司は、65歳で出向元会社を退職し、シンガポール事務所所長として中国語の習得にも挑戦し、世界を股にかけて元気に活躍している。

今月に一時帰国したとき、庄司は、近況と将来の生き方について次のように語った。

「学生時代に勉強した英語がはじめて活かせる仕事についています。出向元会社を退職して、給料は元の会社にいたときの半分になりましたが、仕事は非常に面白いし、この会社はこれからますます伸びる夢があります。私は一生この会社、そしてシンガポールで仕事をしたい。一人息子も結婚しましたし、妻も近々シンガポールに呼ぶ予定です」

「庄司さんは、よく頑張ってくれています。売上も前年比50%も伸びました。これからもシンガポール事務所長として頑張っていただこうと思います」

社長が、最近、菊池と会った際にこう語っていた。

菊池は庄司が次回帰国した折に、その後の活躍ぶりを本人から聞くことを楽しみにしている。

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